会員‐近況報告

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自粛時の暇つぶし - 小柴 禧悦

2020/10/14 (Wed) 16:27:03

自粛時の暇つぶし-小柴 禧悦(化工会)

新型コロナウイルスにより外出を自粛するようになった時、以前からやるつもりで、エクセル表だけを作ってあった日記サマリーに取りかかることにした。

1984年10月(49歳)、会社の先輩と飲んでいる時に彼は3年連用日記を付けているという話を聞き、大学入学以降止めていた日記を始めて見ようと思い立った。早速日記帳を買いその日(10月27日)から書き始めた。以来現在13冊目となる。日付の付いた一ページが1年10行づつになっているので、前年のことが分かるのが楽しい。ペン習字の勉強になり文字が上手くなるかと思ったが、それは叶わなかった。

エクセル表は縦軸に月日366日、横軸に年度、1日分を3行とした。日記を読みながらトピックスを打ち込んでいく、3月7日から1日に1ヶ月3年分を書くことにして始め、8月16日に2019年末まで12冊完了した。35年間の諸々を思い出しながら進めたが、はっきり憶えていることと誰だか全く思い出せないようなこともあった。勤めていた最初の10年間は書き込む内容も多く、1日3時間位かかっていたが、次第に少なくなっているようで最近の分は1時間余りで済んだ。

エクセルのいいところは検索が出来ることだ。編集委員会で検索すると53回出席したことが分かる。33化工のホームページでは60回となっているので、約9割出席していたことになる。ウオーキングを意識して始めたのは1998年7月からで、昨年末までの回数2666回。早朝に切り替えてから5年半、雨以外は歩くので回数が増えた。1回5キロとすると、13,330キロ地球の円周の3分の1。錦糸町のトリフォニーホールには2000年4月から昨年末まででちょうど400回通っていた。交通費だけでも相当なものになる。東京文化会館に年数回、その他も含めると、クラシック音楽には大分出費していることになるが、この趣味は止められない。

8月後半からはネガフィルムをそれ用のスキャナーを買いデジタル化を始め、手始めにラグビー部同期4夫妻でカナダ旅行した際の写真をデジタル化した。9月にパソコンを更新したので、中断しているが、再開しようと思っている。年寄りになったことを自覚させられるが、懐かしい。以上私の暇つぶしでした。(2020年10月14日記)

近況報告 - 大野 昭郎

2020/06/25 (Thu) 10:39:52

ご無沙汰しています。一昨年末入院手術以来南共済病院で外来治療ストマ―更新を続けていますが、何とか小康を保っています。みfなさんに宜しく。6月26日大野

10万円 - 小柴禧悦

2020/06/14 (Sun) 18:00:47

私の場合は、総務省が5月1日に特設サイトを開設したとのことで、5月2日にマイナポータル(ぴったりサービス)にアクセスしてみました。受付を開始している市町村リストの中に松戸市があったので、オンライン申請することにしました(その時点では、横浜市など大都市はなかったようでした)。

様式に必要事項を打ち込み・選択し、通帳をスキャンしたファイルを添付し、マイナンバーカードをセットし送信したところ、【ぴったりサービス】メール送信確認のご連絡というメールが自動送信されてきました。その50分後に【ぴったりサービス】電子申請送信完了のご連絡というメールが来て 特別定額給付金 (受付番号15桁の数字)が記されていました。これにはZIPファイルが付いていて、開くと「申請様式の控え及び申請データについて」というPDFファイルがあったのですが、控えのデータが見当たらないのでおかしいなとは思いました。しかし連休中でもあるし、そのままにしておきました。
何回も申請した人がいたというのはこれが原因かも知れないと感じています。

そして5月6日【ぴったりサービス】電子申請データ受領のご連絡というメールが自動配信されてきて、データを申請先の自治体にて受領したとのことでした。その後、松戸市のHPで送付を始めたと知ったので、5月21日に口座をチェックしたところ19日に入金されていたという次第です。早速大岡山のさくら並木キャンペーンに一口、サポーターズ会員の口数を増加しました。またこの際とばかりに眼鏡を新調しました。

マイナンバーカードはカードリーダー代が国から出た時に取得し、確定申告に使っています。運転免許を返上した時の備えにもなるでしょう。個人情報を心配する方がいるようですが、私には隠すような財産もないので、何の心配もしていません。それよりも1枚あれば用が足りるものが必要であろうと思っています。それにしても我が国のシステムは何とも嘆かわしい状態であることがコロナ対策も含めて露呈してしまいましたね。田中角さんや中曽根さんのような実行力が欲しいものです。

今回上原さんが会員・近況報告欄を使ってくれたので、遡って読んで見ました。また違った感想もありましたが、大いに笑ってしまったのがたまたま3.11の前日の指揮者考(私の投稿で済みません)に付け加えた幼児指揮者の動画でした。10年前、当時3歳だったJonathan Okseniukちゃんには改めて楽しませてもらえましたが、その後の動画もあり、今や成長した(といってもまだ少年)立派なヴァイオリニストでした。
http://www.youtube.com/embed/0REJ-lCGiKU
https://www.youtube.com/watch?v=aZofC_8x-qs

まだTV、Uチューブでしか楽しめませんが、早く治まって演奏会に行けるようになることを願っています。

10万円 - 上原修

2020/06/12 (Fri) 17:16:50

川崎市からも遅ればせながら6月10日に申請書が来ました。
かねてから、電子申請は評判が悪いし、もともと出山さん
ような才能がないので、迷わずに書類申請を返しました。
通帳の裏表紙をコピーして添付するようになってたけど、今時通帳などATMでも通用しなくなってるのに、この先同じようなケースではどうするのか、余計な心配をしたりして。

今回のコロナ騒ぎで、政府の意思決定・伝達ばかりでなく、IT技術というかシステムというかのお粗末さはまで加わって、そうでなくても自粛とやらで憂鬱なところに情けなくなって来ます。「日本のシステム」とか「民度」とか威張っていられますか。

ところで、その10万円ですが、早くから辞退するなどという話もあったけど、諸兄はどうしましたか。小生はコロナで減収になった訳でも無いし、そもそもこの金は赤字国債つまり将来からの借金だから、次世代のために使おうと考えていました。丁度そこへ、5月18日に東工大学長名で、困っている学生がいるから支援を頼む、というメールがきたので、迷わずそこに振り込みました。

コロナそのものも、まだどうなるか分かりません。われわれの編集会議もいままでのような形で開けるのは何時になるか。なるべく早くにと祈りつつ、元気で居ましょう。

      2020/6/12  上原 修

故戸田伸一(父)について 戸田 聡

2018/03/27 (Tue) 23:28:59

http://deyama.jp/tit33c&ce/kakou_1/fuhou.html
のページを拝見し、メッセージをお送りします。父の訃報をご掲載くださり大変ありがとうございました。今までこのWebサイトを知らなかったため、今ごろの遅ればせのご連絡となってしまいました。悪しからずご容赦ください。父の葬儀は3月1日(木・前夜式)、2日(金・告別式)に執り行ない、無事済みました。父はあまり同期会には熱心に参加していなかったかもしれませんが(清浦研のことを後悔の念とともに父から聞いたことがあります)、死去のことを皆様にお伝えくださり大変ありがとうございました。お礼までにて失礼いたします。 戸田 聡(戸田伸一次男)

3.11東日本大震災に絡んで思い出すこと - 梅田 富雄(化工会)

2013/03/27 (Wed) 23:08:42

大震災発生から2年を経過、いまだに回復が思うように進んでいない現状に心が痛む。種々の原因はあろうが、うがった見方をすれば、規制や理想像を掲げて、計画に時間をかけているうちに、どんどん日にちが経っているのではなかろうか。

昭和20年3月10日未明の東京大空襲、今回の大震災発生とは1日違いで、個人的には毎年、3月10日は当日を思い出し、よくも生き延びたものと感慨深くおもうことしばしばである。学童疎開で宮城県松島から中学受験で帰省し、1夜あけて当日の夜半、防空警報に目を覚まさせられ、父親の指示に従って母親と妹とともに、火災発生の前に家を後にした。向かった方向は、後にわかったことであるが、強制的に建て壊し撤去された跡地が広がる場所であった。凹んだ所に身を縮め、軽い布団をかぶって、時折上を眺めて青白く照らし出されるB29を眺めたりして恐ろしい一夜を過ごした。夜が明けて早朝、自宅に戻る途中の光景は今でもはっきりと覚えているが、ちょうど、マネキン人形のようなものがごろごろと横たわり、市電は骨組みだけを残していた状況を目の当たりにした。自宅のあった場所に戻ったとき、父親が地面に座っているのを見つけほっとしたが、あたり一面は焼け野が原であった。わずか数時間のうちにこんなに変わってしまったことは、いまだに経験したことがない。後で聞けば、避難場所として指定されたのは、小学校の運動場や講堂とかで、今から考えると都会のど真ん中でこのような避難場所を指定されていたことに驚きを禁じえない。50人のクラスの7割近くはここで亡くなったとのことである。3月11日の朝日新聞朝刊に同級生岡崎君の当日の状況が記載されているのを発見した都庁で開かれた都主催の式典で被害者代表として語ったとのこと、彼は「街一帯は火の海となり、学校のプールに飛び込んで九死に一生を得た。戦後の復興を「日本人の努力の賜物」と思う反面、空襲の記憶の風化を懸念する。「戦争の恐ろしさをこれからも叫び続けたい」

当時、怖いものとして恐れられたことは、「地震、カミナリ、火事、おやじ」とよく言われたが、地震は、天災で不確定な要素が多く予測が出来ない現状で、今でも非常に怖いものであろう。おそらく「おやじ」の権威が低くなり、世の中はこの点では随分変わったものである。

戦後の復興はすさまじい勢いで行われたことは多くの人たちが経験したことであるが、とにかく自分の赴くままそれぞれは自活の道を歩んできた結果、バラックが立ち並び、街は活気を呈したものである。大前氏は大震災直後、速く計画を立てていかないと戦後のようにばらばらな住居が立ち並び、戦後の都市開発の状況と同じになると警告を発していたが、この間の動きの鈍さに驚くとともに、個人の復興へ向けた努力を活かせていない状態は、戦後の復興の速さと比較するとどちらがよいかわからなくなる。今では東京も再開発の結果、美しさを取り戻している。確かに津波対策がネックになっていることが復興を遅らせる要因のひとつかもしれない。早期の復興を願わずにいられない。東京スカイツリーの下に架かっている言問橋の欄干の下部に焼きついていた人体から出た油の痕は今ではまったくわからなくなっているが、当時毎日眺めながら自転車通学をしたことを思い出す。多くの犠牲者が隅田川に飛び込んだり、橋の上を もみくしゃにされながら、逃げ惑ったりした3月10日の夜に状況は、時折番組で放映され、生存者から語られたことであるが、関心のない人たちの記憶には留めにくいものであろう。今回の大震災についても同様であるように思う。津波の状況をテレビで見るたびに、一瞬の出来事の恐ろしさ、自らの行動は自分で状況判断して決めることの大切さを痛感するとともに、3月10日の行動結果が本当にラッキーであったと思う。(2013:3:27)

原鉄道模型博物館見学記 - 大橋 貞雄(化工会)

2012/09/15 (Sat) 20:33:33

去る9月9日(日)に孫(小学生)を連れて、原鉄道模型博物館に行ってきました。
同博物館は今年7月中旬、横浜三井ビル2Fにオープンし、原信太郎氏が製作・所蔵の鉄道模型と彼が世界各国を巡って写した写真、収集した希少なコレクションが展示されています。
アクセスは横浜駅東口から徒歩5分、日産自動車グローバル本社ビルの向いです。
入館料は少々割高で、大人¥1,000、中・高学生¥700、4歳以上¥500です。
写真撮影は禁止ですので、ご承知置き下さい。

原信太郎氏は昭和17年、東工大機械科卒、コクヨ(株)の元専務で、現在93歳です。
鉄道好きは幼少期からで、小学生で一番切符を集め、カメラを持って長旅もし、モノが無い時代にも工夫して13歳で最初の模型を製作し、鉄道技術書籍を読むためにドイツ語・フランス語を習得と紹介されています。
模型博物物館には原氏の収蔵約6,000輌の内、約2,500輌が展示されています。

今回の訪館で感じたことをご参考までに列記します。
1) じっくりと展示模型の解説も読んで回るには、一人で行かれるのが正解です。
2)孫のためと思って連れて行きましが、新幹線など今の車輌に興味があっても、昔の車輌
には馴染めない様で、世界中から収集・展示してある鉄道模型への反応は今一つでした。
3)世界最大級のジオラマは車輌の走行音、照明を含め圧巻で、誰もが楽しめます。
この「いちばん(ゲージ)テツモ(鉄模)パークジオラマ」は、本物の鉄道の走行音を再現するため、架線から電気をとり、鉄のレールの上を鉄の車輪で走行しています。
4)原氏が製作した模型は、部品一つをとっても、展示されている拡大写真で見ると実物と
思われるほど精巧に作られており、流石です。
5)しかし、小6の孫はジオラマには目を輝かせましたが、それより、隣の日産自動車グローバル本社ビル・ギャラリーでの試乗の方が気に入ったようです。参考にして下さい。

写真撮影は禁止のため、館内の雰囲気を紹介出来ませんが、夏休みが過ぎ、祭日でもそれほど混雑しておりませんので、興味のある方にお勧めします。(2012/09/15)

近況(心境) - 小柴 禧悦(化工会)

2012/09/03 (Mon) 17:54:18

七十七歳一病息災朝昼晩薬服用週一休肝日 

今秋の高校同期会通知の返信はがきに書いた近況です。小生が愛読する日経新聞の歌壇に掲載された短歌の替え歌で元歌は

八十三歳多病息災朝昼晩薬服用体調管理 いわき 坂本正直

歌壇には同年代が多いようで、自分の心の内を代弁してくれるような歌があり、それが10年近くスクラップをしている理由だと思う。そこで思い付きではあるが、最近の歌の中から私の近況(心境)をご覧あれ。


夏バテは絶対しないと浮き雲にムンクの叫びのように手を振る 成田 神郡一成

負けた試合の録画はあまり観たくなし立派な銀と分かつてをれど 横浜 島田あきこ

海神の乱獲責むる怒りにや、蒲焼党に辛きこの夏 横浜 吉田鱒石

凡人は弱音を吐けばいいのです内ポケットの矜持は失せず 岡山 岩藤由美子

演奏の前は静かに両の耳休ませませんか熟女のお二人 東京 松本秀三郎

アンコール曲に拍子を取りにつつ曲名出で来ぬロビーに出ても 仙台 森 葉子

上り坂のぼればあとは下るしかなくこれもまた易きにあらず 富山 林 槙子

ギリシャ人ディオニソスより教わりしワインに酔いて国庫危うし 池田 飯浜廣幸

語り部になってるだろう脱走し自由を知った一羽のペンギン 東京 宮田由樹

住みにくき世を諾ふごと今年まためっきり減りしつばくらの数 町田 谷川 治

残生は<目覚まし時計>かけずに生きゆかむ桜はおのずと展き散りゆく 藤沢 清島俊雄

○平成20年に登場し、2年後に病没した会社で1年後輩の2首

次の世を背負うべき身と歌ひたる疎開の朝礼今に忘れず 横浜 吉村晃一

OB会「どうもどうも」で名が出ない名札をまともに見るわけにいかず 
(告別式当日に掲載され、年度末の秀歌に選ばれた)


○やがて実感するであろう心境

関りし人みな逝けば何事も無かりし様に老いの日静か 京都 日比小夜子

卆寿こえ鏡に向かい眉を描き生けるあかしうすく口紅ひく 岡山 竹本清子

夫の名覚えているかと母に問ふ笑まひて答ふ「仏様でしょ」 東京 小沼常子

めんどうをかけてる身ではいいずらい生きてるかぎり生きぬくなんて 掛川 村松建彦 

3.11と近況 - 上原 修(化工会)

2012/08/14 (Tue) 13:17:29

2012/3/24  

 前回の編集会議(第30回:12/3/12)で例によって出山編集長から、全員に投稿の檄が飛んだ。丁度3・11の一周年にあたって、マスコミも特集を組んでいろんなエピソードを伝えていたので、みんながそれぞれの体験や感想を持っているはずだと思い、これをテーマにすることを提案した。とは言え自身の『体験』は実に貧弱で劇的な要素は全くない。

 その時、私は自宅で机に向かって、電話(都内)をしていた。住まいは築43年のマンションだが、1階ということもあってか、揺れることはあっても物が倒れたり落ちてくることも無かった。唯一の例外は、棚に積んであったA4のコピー用紙がすべり落ちて床に散乱したくらいで、原因は直下の紙箱との間の摩擦係数が小さかったためである。揺れが収まってから、家中点検したけど他には被害は皆無だった。かみさんは、病院での診察結果をきいた帰りで、車のキーを回した瞬間だったので、ついにこの車も寿命が来たか、と思ったらしい。

 無事戻ってからは、一緒にTVにくぎ付けになって見入っているだけだったが、次々に写し出される津波の映像に、ただ『祈る』気持ちしか無かった。しかし、原発に関する報道には、いろいろ『考え』させられる問題を含んでいた。

 と、ここまでは日付の通り、3月24日に書き始めていた。

以降、『考え』たことを中心に何とか報告しようと思っていたが、問題が大きく、考えも多岐に亘ってしまって、行きづまり状態にあった。その間、身辺でちょっとした変化があったので、まずはそちらの近況報告へ切り替えることにする。

 この6月、上記43年前に新築で買ったマンションを売って、老人ホームに移り住んだ。地震のときは、マンションの修繕委員長として、一級建築士と電話をしていた。『 オー!大分ひどい揺れですね。ひとまず切りましょう。』 と電話を切った。彼とはそれ以来、会話はしていない。実は、電話の内容は、委員(長)を退く事情についてだったのだ。

 一方、カミさんの診断の結果は大腸がんで、おまけに腎臓にもがんが見つかって、即刻入院・手術との宣告だった。という訳で、地震とは関係のないところで、事態は動き始めた。翌月(去年の4月)手術も無事に済み、退院後の老々2人暮らしも何とか切り抜けた。私事で恐縮だが2人の息子はいずれも独身で別居。

 かねてからカミさんと、いつかはここを出て、老人ホームに行くのは避けられないねと話はしていた。それには、齢とって動けなくなる前に行動をおこすのが良いだろう。周りから入れられるのでなく、自分で入るのが良策である。息子どもには、迷惑も掛けない代わりに何も遺さない。などなど・・・・。そんなことで、この入院が次へのきっかけになったのは確かだ。

 老人ホームもいろいろあるが、元気なうちに入るのを自立型(対しては介護型)という。併存してるのもある。介護が必要になったら然るべき部屋に移って受ける、という契約になっている。老々介護は避けられる仕組みだ。

年明けから本格的に探し始めて4~5軒回った挙句、地理的・経済的要因を満たし、なおかつ雰囲気も良さそうなホームが見つかった。元気なうちだから、行動(交通)の便も必要、日常生活に潤いも欲しい(これには、ある程度の規模が望ましい)。ということで、エイやと6月17日の入居を決めた。

 住居の処分、身の回りの整理、諸々の届け出、はたまた金策?などの多忙に加えて、次男の海外転勤話まで重なって、てんやわんやの日々を何とか乗り切ったが、”行動”するにはギリギリの年齢だったとはカミさんの話。自分はあまり働かなかった。さて入居してそろそろ2ヵ月。居心地はどうかとなると、すべてにとは行かないまでも、ほぼ満足という日々である。これまでの外のコーラスと月1回の”仕事”は続けながら、中では麻雀のサークルに入って、昔とった杵柄で週2日を楽しんでいる。

 因みに、上記『考え』させられる問題は、「人類はどういう姿で滅亡するか」というところまでで行きづまっている。以上、5ヵ月かかってようやく近況を書き終えた。
                       2012/8/13  追記

私の体験:3:11と3:10 - 梅田 富雄(化工会)

2012/06/27 (Wed) 16:11:39

3月11日は家内と一緒に昼前に家を出て、都心に向かっていた。家内は長男夫妻と日本橋で会食の予定で日本橋へ、私は研究の打ち合わせと会議が予定されていたので、銀座に向かった。昼食後、大震災が起きたとき,私は銀座、並木通りに面した免振構造の新しいビルの地下にいた。地震発生時、半分開放された個室になっているところで学会報告の論文作成について打ち合わせをしている最中であった。それほど恐怖を感じるほどの揺れではではなかったように思えたが、開放されたスペースでは主として女性客が立ち上がり外に出ようとしていた。店の主任らしき人が、ここは免振構造の建物で中にいるほうが安全であるとアナウンスをしていた。水槽の近く座っていた男性客に、「魚の動きはどうでしたか」と尋ねたところ、やはり激しく動いていたとのことであった。
次の会議がエンジニアリング振興協会で予定されていたので、打ち合わせを終えて外に出て、日比谷公園まで来たところヘルメットをかぶった群集が集まり、異様な雰囲気になんとなく地震の大きさを感じ取った。日比谷図書館の入り口付近で道路が少し隆起しているところを2,3人が指さして話をしていた。会議の場所について2,3人の参加者と主催者が今日は中止と告げられたので、帰宅しようと思い、外に出たが先ほどまで運転していたバスを含めて交通手段がストップしていることを知り、先ずは家内と会うために日本橋三越本店まで歩くことに決めた。日ごろ歩いているルートであり、それほど離れているとは思っていないので気楽に歩き始めた。銀座通りはすでに人の流れができており、異様な賑わいであった。途中、高島屋を覗いた多数の人々が集まっていた。いづれも動きがとれず交通手段の再開を待っている様子であった。
三越について、家内呼び出しのアナウンスをお願いし、幸いなことにすぐに会うことができた。すでに長男夫妻と別れ、家内は地下鉄改札口の近くにいて、急の振動でかなりの恐怖を感じ、他の人も含め、太い柱の袂にうずくまっていたとのことであった。長男は三越の駐車場で車の大きな揺れに驚き、急いで車とともに外に出たとのことであった。
一時6階の特別室で待機していたが、その間に固定電話で次男に連絡がつき、恵比寿から30分ほどで向けに行くとのことですでに暗くなっていた寒い外で待機していたが、異常状態は道路の渋滞を引き起こしており、外で同じように連絡してまっている人達との会話では3,4時間すでに経過しているとか、30分程度経ってバス停に着くバスは満員で、待つこと3時間とか、かなりの混雑さが容易に感じられた。外は相変わらず多数の人が歩いて帰宅している状況であった。次男が長男とともに向けに来たのは4時間後、しかもその後恵比寿に向かうも渋滞でほとんど停止したままの箇所が多く、新橋界隈では1ブロックを動くのに1時間以上もかかっていた。6時間ががりで、車外の大勢の人たちが歩くのを眺めながら、社内ではテレビで異様な栄蔵を視続けながら、夜中の3時に恵比寿に着いた。

このような状況を体験したが、もう一つのひどい災害体験は終戦の年の3月10日、9日の夕方からB29の来襲でおそらく空襲警報と避難勧告が出されていたと思う。母親と4歳の災害防止用の頭巾をかぶった妹とともに、父親は自宅に残したまま、早々と非難し始めた。記憶では外は少し明るかったように思う。近くの神社境内に一時避難、続いて母親は重い荷物を放置して、毛布と思われるものを持ってさらに遠くへ避難すべく歩いた。たどり着いた所は、火災発生時に類災を避けるために予め建物を撤去していた地区であり、窪みにうずくまって一夜を過ごした。頭上には敵機を映し出す青白い照明の帯が見えていた。
空襲警報が解除され、自宅付近までも度お手北が、途中に異様な景色は今でも断片的に記憶している。焼けて骨組みだけの市電やマネキン人形のような焼死体などを見た。自宅のあったところにたどり着いたとき、あたり一面の焼け野に父親が座っているのを見つけた。
ほかの事は記憶にない。毎年3月10日が来るたびに「ああ、今日は3月10日か」と新聞を見て思い出す事柄である。
昨年も同じ思いであったが、翌日に大震災が発生、二つの大事件が合わせって記憶に深く刻み込まれることになってしまった。

最近市民参加の公開講義「災害リスクマネジメント」を毎週木曜日午後に拝聴しているが、リスクセンスをきちんと身につけておくこと、いつでも災害発生時を想定して今の居場所が大丈夫かを確認することの重要性を何度も指摘、強調されていた。災害時に行動する際、「避難場所」と「避難所」は異なることをしっかり記憶しておくことも指摘された。蛇足ながら前者の場所では正確ができないこと、できる限り早く後者に移る必要があることは言うまでもないことである。
大地震後の2,3ヶ月は余震が続いたが、そのときの行動は、当日の恐ろしさと関係しているようで、幸いなことにあまり大きなショックを受けなかったためか、家内の動作に比べてどうやらリスクセンスが磨かれていないことに気づかされた。
最近、あることについて調べていて、組織学習におけるダブル・ループ学習モデルの必要性を知り、このことのアナロジーとして、予想される行動目標と現状が異なればフィードバックがかかり修正動作がとられるが、動作を支配している目標が状況に応じて変化していれば、その後の動作は不適切になり、内面の支配因子を修正する必要がある。リスクセンスを磨くことは、この視はいい因子の修正に相当すると思う。ちなみに、組織学習では戦略の変更などにあたる目標の変更は、技術系の人達には馴染みのあるフィードバック制御の設定値変更に相当する外側のループの存在を改めて気づかされた。原点を調べると、モデル提案者のArgyris はサーモスタットの例を引いてデンキコウガク、サイバネテイックスからこの言葉を借りたと記述してあった。興味のある方に参考として次の図を示して、この記事を終わりとする。(2012:6:25)

「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 松平 忠志

2009/02/19 (Thu) 17:16:21

ご存知の方も多いのかも知れませんが、私は最近知りました。調べてみると高齢者には大切なことだと思うので、親類・知人などにPRしています。

70歳以上になると免疫力が下がるので、肺炎で死ぬケースが多い。最近、抗生物質が効かない菌種が増えているため特に増加傾向にある。

ワクチンの効果は5年ほど続く。などなど、インターネットでもすぐ調べられます。健康保険は適用されませんが、1万円弱とのこと。

免疫学者、谷口克氏の「免疫でガンを治す。」という講演(日本技術士会)を聴きに行きましたところ、肝心のメーンテーマの話は、いま一つでしたが、70歳以上の方は「肺炎球菌ワクチン」をぜひ受けるようにと勧められた次第です。

早速かかりつけの医者に、取り寄せを頼みました。「今までに10人ほどから頼まれたが、やっておいた方が良い。」とのことでした。

Re: 「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 椎名 利

2009/02/19 (Thu) 20:20:29

松平さん
しばらく。
「肺炎球菌ワクチン」の話以前から聞いているのだけど、私が聞いたところでは、効果が切れた後再度行うことができないと聞いてます。だから私は90歳になってからと思っている のだけど、もっといいものができたのでしょうか?

Re: 「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 松平 忠志

2009/02/19 (Thu) 20:23:56

椎名 利様
「5年しか効かず、その後再度はできない。」というような詳しい話はありませんでした。
たぶん正しいのでしょう。
私は既に医者に頼んでおり、3月にでやってもらうことになっています。
その時に詳しく聞いてみます。分かったらここに書き込みます。

Re: 「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 - 大橋 貞雄

2009/02/19 (Thu) 21:55:01

小生は4年前に家内と一緒に接種しました。7年間は有効とも云われ、「2度目はもう要らないね」と茶化した記憶があります。その後、ご高齢?の仲間に話をしますと、皆さん「それは良いね」と言われますが、「接種しましたよ」との話はトント伺っておりません。この際、あらためてお奨めします。

Re: 「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 椎名 利

2009/02/20 (Fri) 21:31:21

大橋さん
このワクチンの話だけど、私も受けるべく以前に医者に相談したら、この効果は10年(?)程度で、再度行うことができない。従ってもう少しまったらと言われ、それならおれは90歳になってからにしようと思っていたのだけど、情報が古いのだろうか?
それとも新しいワクチンが開発されたのだろうか
(同じ質問を松平さんにもしましたが不明でした)

Re: 「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 - 松平忠志

2009/03/08 (Sun) 12:31:11

椎名様
肺炎球菌ワクチンの再投与は、まだ新しいワクチンなので、国によって基準が違いますが、我が国では確かに禁止されていますね。しかし欧米先進国では許可され、推奨されているようです。
かかりつけの医師に聞きましたが、インターネット以上の情報はありませんでした。
最近注文が殺到して品切れだそうですが、4月に接種してもらうことになりました。
ご参考までに情報源の一つを下記します。

http://www.geocities.com/HotSprings/4347/pneumo3.htm

Re: 「肺炎球菌ワクチン」 の紹介 - 大橋 貞雄

2012/06/05 (Tue) 16:20:00

化工会のHPを久しぶりに開きました。
情報が大分古い儘ですので、下記致します。
肺炎球菌ワクチンの再接種は日本でも数年前に認可されています。
5年以上経過と言われていますが、再接種で熱や麻疹が出ることがあるそうですので、7年位経過してからで如何でしょうか。
小生と家内は今年の12月で7年となります。最初に接種した医者と相談した結果、年末に再接種する予定です。

2011年3月11日14時46分18秒 - 出山 基(化工会)

2012/06/05 (Tue) 09:36:02

東北地方太平洋沖地震が起こったこの時、私は横浜駅から約600m離れたところにある小さな8階建てのビルの3階にある会社にいた。地震は緩やかな横揺れで相当時間が長かった。事務所には全く被害は無かった。

会社には、テレビ、ラジオは無かったが、インターネットからの情報により、東北地方の地震・津波による被害状況は分っていたし、横浜地方の交通機関は全て止まっていることも分かっていた。しかし夕方になれば復旧するだろうと考えながら仕事をしていた。

私の家へは、横浜駅からは、JR根岸線で港南台駅(+徒歩20分)、京急又は地下鉄で上大岡駅(+バス15分+徒歩3分、又は+徒歩30分)およびバス(+徒歩5分)の4路線があるので、そのうちにどれかが復旧するだろうと考え、6時頃から社内でビールを飲み始めた。午後7時頃にはバスが動き始めたことが分かった。

家内は1週間前から大阪の姉の家に行って留守だったので家のことが心配になり、4時ごろ向かいの家に電話したが、すぐ繋がり、問題なしとのことで安心した。

8時頃、新横浜駅近くに住んでいる人が歩いて帰ると言って、会社を出て行った。私もバスで帰ろうと思って会社の近くのバス停に行った。横浜駅周辺の道路は、横浜駅に向かう道路は大混雑、反対に横浜駅から出る側の道路はまあまあの状態であった。やっと来たバスは満員で停止してくれなかった。仕方なく始発の横浜駅東口停留所に行った。そこは見たこともないような大勢の人で、とても待って乗れるような状態でないことが分かり、バスでの帰宅は諦めた。

仕方なく次に行った京急とJRの改札口は閉鎖されており、11日中の運転再開は無いとのことであった。

最後に地下鉄の駅へ行った。階段の両側には多くの人が徹夜覚悟の状態で座っていた。駅員の説明では、運転再開に向けて安全確認をしているが、いつ再開できるか不明とのことであった。仕方なく会社に戻った。

10時前に東横線が運転再開したと言って帰っていった。10時半ごろに相鉄が運転再開したと言ってまた1人が帰っていった。会社には私を含めて3人になった。

11時半頃、インターネットで地下鉄の運転再開を知り、金沢文庫に住んでいる人と2人で上大岡駅まで地下鉄に乗った。上大岡に着いた時は12時を過ぎていたが、すぐ深夜バスに乗ることができ、12時半ごろ無事家にたどり着いた。金沢文庫の人は上大岡から歩いて帰られたとのことあった。会社に残った松戸の住人は会社で寝て翌日午後3時ごろやっと帰宅したとのことである。

家に帰って被害状況を調べたが、寝室の19型テレビが1mの台から畳の上に正常な状態で滑り落ちていた以外は何もなかった。

2011年3月11日その時私は - 宮内 浩次(応化会)

2012/03/20 (Tue) 22:35:20

 2011年3月11日14時46分に三陸沖で発生した東日本大地震が東京に伝わったのは46分を少し遅れた14時47分に近かったと思います。
 
その時、私は神田神保町の神保町PR-EXビルの5階に居ました。PR-EXビルは9階建ての平面積が100平方メートル程度の小さなノッポビルで、ドドドとの縦揺れに続きユサユサと大きな横揺れに見舞われました。

 5階の私の周りには女子社員2名と男子社員2名が執務中で、大きな横揺れと同時に女子社員は、青くなり立ち上がりヘルメット、ヘルメットと叫びました。私はパソコンに向かって仕事中でしたが、中腰になりパソコンを手で抑えて“ヘルメットを取りに行くより先ず机の下に体を入れなさい”と叫びました。

 女子社員から「工場で鍛えた宮内さんが居てくれて心強かった。流石!」と云われ、老体ながら多少は役立ったかなと思いました。

 地震に見舞われ首都圏の公共交通網は完全に麻痺し、夜になり私鉄から順次電車が動きだし始めました。私が帰宅の途につけたのは12日の夜半、1時過ぎで、地下鉄半蔵門線の神保町から渋谷に出て、東横線で自宅に着いたのは午前2時を過ぎていました。

 他の人のパソコンのデイスプレイが机から落ちたこと、PR-EXビルのエレベータは使えず、真っ暗な外階段を慎重に手探りで降りたこと、渋谷の東横線の改札口は綱を張り入場制限をしていたことなどが記憶に残っています。

 私は昨年3月末で旭化成グループのシンクタンクである(株)旭リサーチセンターでのシニア・アドバイザー、主席研究員を致仕するつもりでしたが、東日本大震災のために4月末まで勤め、1ヶ月遅れて気ままな生活を迎えることになりました。

 長年勤めた旭化成本社は2009年11月に日比谷の三井ビルから神保町三井ビルに移転し、合わせて旭リサーチセンターも帝国ホテルタワーの17階から本社のビルから道一つを隔てた神保町PR-EXビルの3,4,5階に移りました。

 1年半足らずのPR-EXビルは、2011年3月11日の東日本大地震と共に私の最後の仕事場として記憶に残りました。


[近況]
息子夫婦と1才5ヶ月の孫が近くのマンションに住んでいて、順番制でマンション管理組合の役員が当たり、息子夫婦に代わり私が役員会に出席したところ、管理組合理事長に互選され、2012年4月から防火・防災管理者も兼務することになりました。3月14日、15日の9時~17時の間、神田消防署横の講習会場で講習とテストを受けました。講習では火災のほか、地震、その他の災害への対応についても話があり、震度7では机上の物が落ちるのでなく2メートルも飛ぶとの事でした。年々、体力は衰えていますが、定められた命(定命)の限り精一杯に生きてピンピン・コロリと逝けたらと思います。思い通りにはならないかも知れませんがソコソコ元気に日々を過ごしています。―以上―

東日本大震災について思うこと - 伊森 武彦(化工会)

2012/03/20 (Tue) 21:53:07

東日本大震災から約1年過ぎた3月初めに、たまたま「東日本大震災復興応援ツアー」があり( 2泊3日で現地数か所を見学し、被災者から色々被害状況等の話を聞き、また現地産品等を購入する事による支援ツアー )、とても興味があったので これに参加して主として岩手県宮古市を中心に見て来た。

既にテレビや新聞等で種々報道されている通り、現地はバスの車窓から見ると海には防潮堤、防波堤の転倒した残骸、海岸沿いには流されて全く路床の無くなった三陸鉄道の軌道跡地、瓦礫はほぼ撤去されているが家の基礎のみが残る敷地の跡が更地として延々と広がり、ところどころにポツポツと仮設住宅の店舗や倉庫が建ち、一方まだ鉄骨がぐにゃぐにゃに曲がったまま撤去されずに残っている鉄骨造りの建物、津波には流されずに残ってはいるが1、2階部分の窓や戸に板を打ち付けている店舗、屋上に打ち上げられた自動車が乗っかっているコンクリート造りの建物等々が延々と有り、見るも無残な状況で復興はやっと緒に就いたばかりと云う感じであった。特に被害の状況は海からの距離ではなく海面からの高さにより大きく変わり、低地の人が多く住んでいる市街地の被害が大きかった事が印象的であった。

ツアーコンダクターの話として岩手県は、首都圏からのアクセスが福島県や宮城県と比較して悪く、ボランティアの数も、援助の額も少なく、且つ復興も遅れているとの事であった。赤十字の義援金にしてもその配分はまだ一部しか行われてなく、末端被災者にはほとんど届いておらず、また風評被害で地元産品はあまり売れず、被災者の生活はとても苦しいとの事であった。従って被災者達にはこの様な支援ツアーが期待されていて、旅行社としては少しでもその手助けになればと思い今後力を入れていくとの事であった。

ツアーを通して「百聞は一見にしかず」と云う諺通り、被害状況は報道で想像していた以上に極めて大きく「想像を絶する」と云う表現が正に適切で、津波のもたらした自然の力の巨大さ、恐ろしさを実感した。また被災者が生死を分けたのは全くの偶然であり、自分は運が良かったとしか言いようがない、と話してくれたのがとても印象的だった。

この様な大きな災害に対しては、政府の適切な対策が早急に実施される事が強く要望されているのに、実際には全く実施されていない事を現地を見てつくづく感じた。本当に何時になったら以前の状態に回復するのか想像も出来ない状況であり、被災者の不満が充分に理解出来た。

そもそも今回の「東日本大震災復興応援ツアー」に興味を持った理由は、東日本大震災が起きた時に「北海道の温泉旅館に長期宿泊するツアー」(7日間)に偶然参加し、昨年の3月6日より登別温泉に滞在していた為で、当日は朝から室蘭へ行き地球岬を観光し3時少し前に登別駅よりバスで旅館に戻った。地震発生時はバスに乗車中であったので揺れは感知せず、降りた後客待ちをしていた運転手が地震があり相当長く揺れたと云っていた事や、引続いて大きな余震があり、情報を得る為部屋で直ぐテレビをつけこの地震の発生を知った。その後子供より安否を確認するメールも有り、テレビの情報で家の方も相当に被害が有りそうだったので状況を確認すべく隣家に電話をした。しかしもう既に携帯電話は繋がらず旅館の公衆電話のみが通話が可能な状態であった。通話の結果は、5段積の大谷石の塀の最上段の表札があった石1枚が落下、破損しているとの事であった。( 近所では塀が全部倒れた家や屋根瓦が一部落ちた家が数軒あった。 当家は石1枚の落下、破損以外に十数枚の大谷石の組立・積上げ部分のズレ及び目地の脱落があり後日修理した。)

当日は直ぐ旅館のフロントで色々状況や情報を確認したが、情報は全く得られずまた情報を得る手段、方法がテレビ以外には全く無かった。翌日は帰宅予定日で交通を心配したが、空港へは海岸沿いの一般国道は通行止めであったが高速道路が開通しバスも運転していたので無事行けた。また予定の飛行機も幸にキャンセルされず、大分遅れてはいたが運航されていて無事羽田に帰着出来た。一方都内の交通は相当乱れていたが家迄はつくばエクスプレスが間引きではあったが運転されていたので夕方迄には帰宅出来た。

「人生一寸先は闇」とよく云うが旅先でこの様な大災害に合う可能性もあり、これは幾ら自分で気を付けても避けられない事であるので(今回も行き先が北海道ではなく東北であった場合はこれに相当)、これを機に自分の身の周りの整理と後処理を充分しておき、後顧の憂いが無いようにしておかないといけない事を強く感じた。特に後に残された遺族がなにも分からないと非常に困るのではないかと愚考している。本当に今回の復興応援ツアーは自分自身を反省する為の貴重な経験であった。

特に今回の東日本大震災は単純な地震・津波による大災害以外に、想定外の浸水による原子力発電所の事故による被害が重なった複合大災害であり、その復興には多年の年月を要すると思われるが被災地が1日も早く復興する事を切に願っている。
以上

後記

地震保険について:

地震保険を掛けていても家本体が一定限度以上破損しない限り、塀が幾ら損壊、破損しても全く保険で保障されない事が解った。塀の破損額は地震の被害額に算入されないとの事。
以上ご参考まで

我が家(千葉県松戸市)の2011.3.11 - 小柴 禧悦(化工会)

2012/03/18 (Sun) 22:48:05

在宅の金曜日午後は、2階の自室でNHK-FM2時からの「通称キマクラ:気ままにクラシック」を聞きながらパソコン作業をしていることが多い。

そのとき突然、ラジオから緊急地震速報が入り、ほぼ同時に強い揺れを感じた。
かなり長い時間この年になって初めてという激しい揺れが続き、パソコンラックに置いてあるCDケースが落ちてきたり、21.5型ディスプレイが倒れてくる状態となった。揺れが続いている間に、ディスプレイを手で押さえながら、停電に備えてパソコンを停止した。

今考えれば、状態を写真に撮っておけば良かったと思うが、CDケース、解放書棚からの本、スピーカーの上においたイチローの人形などが床に散乱していた。大きな被害はイチローのバットが折れたこと。書棚やCDラックは地震対策済みなので倒れなかった。

階下では家内が弟子に稽古をつけていたが、揺れている間、リビングのコーナーにあるテレビ台兼サイドボードを押さえていたとのこと。幸い、ワイングラスなどが落ちて割れることはなかったが、台所の棚や戸棚の上の瀬戸物が数個落ちて割れていた。

心配した停電がなかったので、テレビでその後の悲惨な津波の実況の逐一を目に焼き付けることとなった。その他のライフラインは、水道は一時的に水が濁ったが、止まることなし。ガス(京葉ガス)は強震だったため、メーターのところで自動停止していたので、リセットすることで使用再開でき、調理・暖房の苦労は
なかった。停電についてはその後の計画停電も含めて全くなかった。その他、電話も問題なし。たまたま前日に満タンにしてあったので、ガソリンの心配もなかった。

我が家は、梨畑に囲まれた46戸の戸建て住宅地にあり、阪神・淡路大震災の年に耐震強度があると評判のセキスイハイムで新築したので、家屋の被害はなかった。屋根も鉄板なので問題なかったが、近所の瓦屋根の家の何軒かで、屋根トップを損傷しているのを少し経ってからブルーシートで知ることになった、それ以外に
は大きな被害を聞いていない。ただ、200メートルばかり離れた墓地では、かなりの墓石が倒れていた。

大震災で被災された方々はもとより、多くの友人たちの外出して帰宅難民になった話などを聞くにつけ、家内共々家に居て、ドラマチックな経験とは無縁で無事に済んだことを幸運であったと思わずにはいられない。

現地の惨状に加え、突きつけられた原発の問題を考えるとき、焦燥感と無力感にとらわれ食欲も減退するような状態になったが、JFSに続々と届けられる海外からの見舞いのメッセージを翻訳するボランティアチームに参加して作業するうちに励ましを受け気分転換できて、大変ありがたかった。

http://www.japanfs.org/ja/pray4japan/message.cgi

2011.3.11の経験 - 山城 誠一(応化会)

2012/03/18 (Sun) 22:39:29

1.ゆれる、ゆれるーー飛びだせ! と 庭へーーー
孫の誕生祝いに植えた樹齢12年のリンゴのふじªの幹につかまり、大きく揺れる木造タイル張りの我が家を見つめていた。
(ª:ちなみに大小合わせて100個前後の収穫あり)

2.学生時代の下宿先のおば(あ)さんのお見舞いに原宿へでかけている家内を迎えにゆかねばとガソリンを満タンにするため近くのスタンドへ。驚く事にすでに新青梅街道の上り線は満杯の大渋滞で断念す。電話これも不通。

3.インターネットで連絡をと開いてみると、バイエルで一緒に働いていた友人のドイツ人ハイデンライヒ氏から「お前さん無事かいね!」の便り。冗談好きの彼に「リンゴの樹につかまり、いろいろと観察していたが、ニュートンのような大法則は発見できず」と返事を出す。

4.隣の日本瓦ぶきの2階建の家の棟瓦(東西方向)が完全に崩れ、半分は屋根に、残りの半分は地面に落下していた。幸い我が家のリンゴの木は落下地点より離れていたのでけがをせずに済みました。

5.東京の大地震で怪我をすると病院は満杯で隣に病院でもなければ入院できません。怪我をして近親者に迷惑をかけられないので我が家(S48年の注文住宅)は耐震工事を2年前に完了していた。建築時の建築基準法が緩かったので、改造費の半分近くが家の基礎部分の内外の鉄筋入りの補強にかかった。免震金具を入れ家の四隅のL字型の壁は厚さ10mmの板に張り替えた。(ちなみに釘等の金属は腐食が進みその役割を終えていた)

6.耐震工事、器具等のNet情報で一番役に立ったのは静岡の情報でした。東海大地震が来るとい30年以上前から騒がれて自治体をふくめて情報、具体的対策、提案が豊富でした。
                                 

指揮者考 小柴 禧悦

2011/03/10 (Thu) 11:47:32

梅田さん、椎名さんの指揮者についてのもろもろ興味深く読ませてもらいました。私も定年後はクラシック一辺倒になり、錦糸町の墨田トリフォニーホールに本拠を置く新日本フィル(NJP)の新・クラシックの扉シリーズと室内楽シリーズを中心に聴きに行っています。あとはテレビでN響をよく聴きますが、メンバーの顔がNJPのメンバー同様に親しみ深く感じます。そして、多くの指揮者による演奏を見聞きできる楽しみもあります。

NJPの音楽監督はウィーンに生まれ育ったクリスティアン・アルミンクで2003年9月から2012~13シーズンまで任期延長を続けている今月40才になる若手です。若さあふれ躍動感ある指揮振りにはほれぼれします。サポーターズパーティーの際など直に接することもできてその誠実さを感じられる指揮者です。写真はサポーターズパーティーで私の友人と握手するアルミンク。

やはりトリフォニーで得た友人から最近紹介された動画サイトを見て下さい。幼児指揮者です。仕草が可愛いばかりでなく、曲を知っているからこそできる前振りをしている姿に感動するとともに笑えます。

http://www.youtube.com/embed/0REJ-lCGiKU

年よりの冷や水 - 松平 忠志

2010/07/11 (Sun) 14:16:39

先日、アンコールワット旅行中に「派手な転倒」をしてしまった。高さ20cm足らずの小さいでっぱりに躓いて転んだのである。同行した弟夫婦は、一瞬骨折か脳出血かと心配したようだが、幸いにも骨折などはなく、すぐ起き上がったので「良かった、良かった。兄貴はいつもよく歩いているから、骨は丈夫だ。でめでたし、めでたし。」ということになった。

同じツアー仲間も「あのでっぱりはひどいよ。若い人でも躓きますよ。」などと慰めてくれた。旅行から帰ったら、娘たちも骨折しなくて良かった。骨が丈夫で良かったと喜んでくれた。

しかし今度の旅行は、計画の段階からひとつふたつ、気になることがあった。第一にゴールデンウィーク直後のカンボジアは、一番暑い季節であり、喜寿を過ぎた後期高齢者にはやや乱暴ではないかと思ったのだ。しかし弟夫婦に付いて行けば、準備も不要、手続きも不要、帰って来たらデジカメのデータを送るだけで、弟が編集し、コメントを入れ、BGMまで入れたDVDにしてくれる。その気楽な旅の魅力に飛びついてしまったのである。

また毎日のように、標高差200m程度の丘陵を歩いているので、歩くことには多少自信があったのだが、2、3カ月前からひとつの老化現象が気になっていた。

手足を打ったとか、何かを当てたという記憶は全くないのだが、手足に青あざが出来るのだ。普通なら1週間ほどで消えるはずなのだが、消えるまでに1カ月もかかる。

この現象は誰でも85歳くらいになると起こるらしいが、いつも青あざがあるのは気もちの悪いものである。

私の母親は15年ほど前に90歳で他界したのだが、85歳頃からこれが始まった。母はイヤダイヤダと言っていた。その老化現象が、私の足に2、3カ月前に現れたのだ。

まだ78歳なのでちょっと早すぎるように思うのだが、原因には全く心当たりがない。

「子供は両親からDNAを貰って作られたレプリカであり、好むと好まざるとに拘らず体質を受け継いでいる。私の余生を写す鏡と言っても良いだろう。」現実は受け入れざるを得ないと思った。毛細血管壁が弱くなったのだろう。

さて今回の転倒では、あちこちに青あざができた。顔面にも頬骨、上あごなどに青あざができた。転び方が尋常ではないと思った。というのは、毎日のように丘陵を歩いていると、1年に2回や3回は転ぶこともあるが、尻もちをつくとか、手のひらをすりむくことはあっても、顔面を打つようなことはなかった。平衡感覚を失った状態、酔っ払いの転び方だと思った。そこで帰国後、脳神経外科でX線CTを撮ってもらった。

頭骨と脳の間(ということは硬膜とクモ膜の間?)に血腫ができているとのことだった。

頭を打ったときに「コブ」ができるが、頭骨の内側に「コブ」ができたようなものだという。血腫があまり大きいと頭痛などを起こすので、頭骨に穴を開けて「血」を抜く必要がある。簡単な手術で、危険はほとんどないが、この程度なら自然に吸収されて行くだろうとのことなので、手術は行わず、2週間おきにX線CTによる経過観察をすることになった。

医者からは、くれぐれも転ばないようにと注意された。また転んだら大変です。激しい運動や飛んだり跳ねたりも避けなさいとのことだった。

年寄りは「転んではいけない。寿命を短めかねない。」と言われているが、骨折ではなくても、このような「血腫」による脳機能障害が起こることがある。頭を柱などにぶつけても起こる。本人には打った記憶がないこともあり、頭痛などの自覚症状がないこともある。

「最近、おじいさんの行動や歩き方がおかしい。とか、急に記憶力が悪くなった。」などと家族に発見されることもあるという。

まとめてみると、本人も家族も「老いの現実」は認めたくない。今までが元気なのだから、これからも元気だと思いたい。旅行に行けば精神的にも高揚し、見掛け上は体調も良くなる。第三者はリップサービスをしてくれる。調子に乗ってはいけない。

自覚はないのだが、おそらく歩き方も前のめりになり、歩幅も狭くなっていたのだろう。
古希、喜寿、傘寿、・・・・・などは、自重すべき年だろう。

以後、原則として杖を持って出歩くことにした。
なお膝や顔にできた青あざが消えるのにどのくらい日数がかかるか、心配していたが、1週間ほどで消えてくれた。毛細血管壁の老化はまだ心配するほどではないようだ。

近況報告(3:根津記念館) - 大野 昭郎

2010/06/09 (Wed) 11:11:15

●根津記念館
近代日本を代表する事業家の根津嘉一郎翁(東武鉄道・南海電気鉄道の鉄道敷設や再建事業にかかわった「鉄道王」)の生家の保存、活用する施設で,2008年10月にオープンした。富士山を借景とした庭は、池と見事な松(大磯の松)があり、根津嘉一郎の気概を象徴しているようだ。

近況報告(2:恵林寺) - 大野 昭郎

2010/06/09 (Wed) 11:08:08

●恵林寺
鎌倉時代(1330年)二階貞籐が夢窓疎石を招いて開山。
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し。」と喝を発した快川紹喜和尚の遺偈が、県の文化財に指定されている山門に掛けられている。


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